最近テレビで(再放送でしたから本当は最近ではない)戦国武将の人気投票をしておりましたが、「織田信長」「伊達政宗」「真田幸村」がベストスリーだそうです。
しかしこの人達、現代の感覚からみれば皆悪人です。気に入らない奴は平気で殺す信長、父親を敵もろとも撃ち殺した政宗、戦国なのだからしょうがない、そういう時代なのだから、と言うのがそういう非道の面に目をつむる理由なのではと思いますが、
賄賂も実は同じなのではないかと思うのです。今の感覚からすれば悪いことですが当時それほどでもなかったようです。
そして現代の感覚からすればお金を不正に得るより人殺しの方がずっと悪いような気がするのですが。
現代の感覚で悪人だから悪人だと言う評価は、吉良にしても、柳沢にしても田沼にしても当てはまらないのです。めざましい働きをする人には敵も多いので当時も批判する人も多かったようですがそういった批判は、信長や政宗などにもたくさんありました。
ただ真田幸村については、あまりそういう話が見あたりません。なぜかというと幸村自身が大阪の陣以外にほとんど活躍の場の無いうちに討ち死にしてしまったからのようです。真田で有名なのは父親の昌幸の方です。幸村は、突然大阪の陣に現れ目立った動きをしたために父親が昌幸と言うこともあって何か人知れぬ秘法を使ったのではないかと言われ、そこから十勇士のような優れた家来がいたのではとか言う講談の世界へと移っていきます。
ようするに幸村は何者なのかよくわからないのです。真田家で優れていたのはあくまで父親の昌幸の方です。
- 2008/09/01(月) 21:24:52|
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江戸初期の年貢は七公三民ぐらいと言われます。戦国時代から太平の時代へと移り変わり色々と町作りなどにお金がかかるのでこれはある程度止む終えない比率なのかも知れません。事実元禄の頃には三公七民になっていたと言われます。
封建領主にとって農民は必要不可欠のものです。そのため「生かさず殺さず」というのが基本にありました。そのため年貢を決める時毎年検地してその額を決めるのが一番ぎりぎりの額を徴収できると言うことでこの方式で年貢額を設定しておりました。
ここでいわゆる時代劇の悪代官が登場します。「賄賂をよこさなければ年貢高を高く報告するぞ」というやつです。そしてこの感覚にならされてしまった現代の人たちは、とんでもない代官だ正義の味方黄門様の登場を待ちます。
ですがこの賄賂、実は農民の方から率先して出していた、つまり贈賄が主だったのではと言う話もあります。つまりいくらかのお金を使って年貢を安く見積もってもらおうというわけです。
これによって農民も助かるし代官も儲かるわけで、損をするのは領主、並びに幕府になるわけです。ですからこれらの賄賂は、幕府にとって困ったものであって時代劇のように庶民が苦しむわけではないのです。
そしてこの頃の庶民は、ほとんどが農民ですから領民みんなが幸せなわけです。
でもそのおかげで幕府は、ますます財政難になり、享保の改革など三代改革になっていくわけです。
前にも書きましたがこのように江戸時代の三代改革とは、決して庶民のための改革ではなく支配者にとっての改革だったようです。
なお、水戸藩では、世の中が三公七民になっても相変わらず重税だったので農民達は悲鳴を上げておりました。底に見回りに出た藩主光圀に訴えるという構図が農民の見方光圀像へと変化していったようです。藩の失政(重税など)は藩主(光圀)の責任だと思うのですが、自分で付けた火を自分で消してほめてもらおうとしているみたいでおかしな話です。
- 2008/08/29(金) 20:25:47|
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賄賂について。
当然現代では賄賂は、いけないものとなっております。江戸時代にもこの賄賂が飛び交った時が何度もありますが、それらを現代の感覚で判断してはいけないようです。
賄賂政治家として有名なのは、元禄期の柳沢吉保と天明期の田沼意次でしょうか。
この賄賂徳川幕府にとっては、どういった認識だったかというと、有力大名から金銭を巻き上げて弱体化させると言うことで好ましいことでしたので。ですから何かに付けうまく賄賂を取ると言うことは、私腹を肥やすと言うこともあったのでしょうが幕府のためになっていたのです。
また、柳沢吉保や田沼意次等は、身分の低い者でいわゆる成り上がり者でした。こういった人たちが封建社会で出世するには賄賂以外に手はなかったようです。
元禄で大きな事件というと赤穂事件がありますが、このころになると幕府の財政はほとんど破綻しておりました。ここに至るまでの幕府の財源のほとんどは、家康の遺産と、各地の金山銀山でした。それらをようやく使い切ったのがこの頃です。
そのため旗本等は満足なお金も得られず、吉良上野介のように地位を利用して賄賂を取ることが出来る人は率先して賄賂を取ったのではないかと思われます。そして幕府もそれでよいと思っていたような期がします。
そう見ると赤穂事件で浅野家ばかり厳しく処分したと言うこともうなずけるような気がします。
浅野家は豊臣秀吉の正室おねの血筋に繋がる家ですので徳川家としては、処分したい藩のひとつでした。
この賄賂と言うだけで柳沢吉保にしても田沼意次にしても吉良上野介にしても悪人のように思われているようですが、実は彼らの政治手腕は見事なものでかなり評価できるもののようです。
結局は彼らの後に出てきた新井白石や、松平定信らがかなりの悪政キャンペーンをはったために現代もこの認識のまま教科書に載り続けたようです。
- 2008/08/29(金) 06:31:27|
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大日本史とは、徳川光圀が編纂を手がけた歴史書です。最も彼の生きている間には完成しませんでしたし、名前も死後「大日本史」と付けられたようです。
この本には三代特色というのがあり、室町時代の南北朝は、南朝が正当とし神宮皇后を天皇系列からはずし、大友皇子を天皇として扱うと言う三点ですが、この南朝正当論からこの本が尊皇の書として扱われ幕末以降大いにもてはやされました。
しかしこの本は、漢文で書かれており、また活字になった適当な出版物もありませんのでこの本を本当にすべて読んだ人は、研究者を除けば皆無ではないかと思われます。
光圀は儒教の人でしたのでこの本は、名分論を元に書かれており天皇の系図もこの名分論に則って書かれております。ですから名分では、武家政権というものは天皇から政権を奪ったと言うことで許されないわけですが(南北朝の北朝は、足利尊氏によって南朝に対抗してたてられた朝廷です。)そうすると徳川幕府も否定しなければなりません。
そこで尊皇敬幕の人光圀は困ってしまったようです。そしてまた、名分では家は、長男が継ぐ者なので南北朝では北朝が長男南朝が次男なので北朝に名分があるのです。
しかし南朝の祖後醍醐天皇は、政権を譲ることに同意しなかったので、政権継承は南朝に名分があると言うややこしい話になっております。
結局光圀は、後醍醐の時は南朝に名分があるが大局的には北朝に名分があるとしたようです。ちなみに光圀の時代の天皇は北朝の子孫ですのでそういう意味でも南朝正当論はなかなか声を大にして言えるものではなかったもののようです。
大局的に北朝支持でいかにに徳川幕府の正当性を理屈づけるかに苦心したのですが、これも時代が下ると光圀は、日本は天皇中心の国家、我が徳川家もけしからんと言う尊皇論者として国家に利用されていくようになります。
- 2008/08/23(土) 21:48:36|
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尊皇攘夷と言う言葉は幕末好きの方ならたいていご存知と思われますが、これは、天皇を敬い異国を打ち払えという運動のスローガンみたいなものですが、この発想も水戸藩あたりから出たもののようです。
九代藩主水戸斉昭(烈公)は、光圀をかなり尊敬していたらしく伝説的に伝えられていたこともそのまま事実と信じているような人だったようです。幕末の動きの中では評価されるようですが実際は困った藩主だったのではと言う気がします。
さて、尊皇敬幕ですがこれは、徳川光圀の思想を一言で表すとこうなるのではないでしょうか。
天皇を敬い同時に幕府敬うということです。決して彼は尊皇一辺倒の人間ではありませんでした。
しかし後の水戸藩の学者など特に藤田幽谷・東湖親子などのでっち上げの結果それを全面的に信じる斉昭のような藩主の登場によって、尊皇光圀像が確定されていったようです。
光圀は徳川家康の孫です。それが幕府を批判するわけ無いのです。あったのは、御三家の中でも一番格下というコンプレックスだけだったのではないでしょうか。自分の地位、藩の格式を挙げるために一見幕府に反するようなことをしたために尊皇イメージが作られていったようです。
- 2008/08/14(木) 10:57:20|
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