江戸初期の年貢は七公三民ぐらいと言われます。戦国時代から太平の時代へと移り変わり色々と町作りなどにお金がかかるのでこれはある程度止む終えない比率なのかも知れません。事実元禄の頃には三公七民になっていたと言われます。
封建領主にとって農民は必要不可欠のものです。そのため「生かさず殺さず」というのが基本にありました。そのため年貢を決める時毎年検地してその額を決めるのが一番ぎりぎりの額を徴収できると言うことでこの方式で年貢額を設定しておりました。
ここでいわゆる時代劇の悪代官が登場します。「賄賂をよこさなければ年貢高を高く報告するぞ」というやつです。そしてこの感覚にならされてしまった現代の人たちは、とんでもない代官だ正義の味方黄門様の登場を待ちます。
ですがこの賄賂、実は農民の方から率先して出していた、つまり贈賄が主だったのではと言う話もあります。つまりいくらかのお金を使って年貢を安く見積もってもらおうというわけです。
これによって農民も助かるし代官も儲かるわけで、損をするのは領主、並びに幕府になるわけです。ですからこれらの賄賂は、幕府にとって困ったものであって時代劇のように庶民が苦しむわけではないのです。
そしてこの頃の庶民は、ほとんどが農民ですから領民みんなが幸せなわけです。
でもそのおかげで幕府は、ますます財政難になり、享保の改革など三代改革になっていくわけです。
前にも書きましたがこのように江戸時代の三代改革とは、決して庶民のための改革ではなく支配者にとっての改革だったようです。
なお、水戸藩では、世の中が三公七民になっても相変わらず重税だったので農民達は悲鳴を上げておりました。底に見回りに出た藩主光圀に訴えるという構図が農民の見方光圀像へと変化していったようです。藩の失政(重税など)は藩主(光圀)の責任だと思うのですが、自分で付けた火を自分で消してほめてもらおうとしているみたいでおかしな話です。
- 2008/08/29(金) 20:25:47|
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賄賂について。
当然現代では賄賂は、いけないものとなっております。江戸時代にもこの賄賂が飛び交った時が何度もありますが、それらを現代の感覚で判断してはいけないようです。
賄賂政治家として有名なのは、元禄期の柳沢吉保と天明期の田沼意次でしょうか。
この賄賂徳川幕府にとっては、どういった認識だったかというと、有力大名から金銭を巻き上げて弱体化させると言うことで好ましいことでしたので。ですから何かに付けうまく賄賂を取ると言うことは、私腹を肥やすと言うこともあったのでしょうが幕府のためになっていたのです。
また、柳沢吉保や田沼意次等は、身分の低い者でいわゆる成り上がり者でした。こういった人たちが封建社会で出世するには賄賂以外に手はなかったようです。
元禄で大きな事件というと赤穂事件がありますが、このころになると幕府の財政はほとんど破綻しておりました。ここに至るまでの幕府の財源のほとんどは、家康の遺産と、各地の金山銀山でした。それらをようやく使い切ったのがこの頃です。
そのため旗本等は満足なお金も得られず、吉良上野介のように地位を利用して賄賂を取ることが出来る人は率先して賄賂を取ったのではないかと思われます。そして幕府もそれでよいと思っていたような期がします。
そう見ると赤穂事件で浅野家ばかり厳しく処分したと言うこともうなずけるような気がします。
浅野家は豊臣秀吉の正室おねの血筋に繋がる家ですので徳川家としては、処分したい藩のひとつでした。
この賄賂と言うだけで柳沢吉保にしても田沼意次にしても吉良上野介にしても悪人のように思われているようですが、実は彼らの政治手腕は見事なものでかなり評価できるもののようです。
結局は彼らの後に出てきた新井白石や、松平定信らがかなりの悪政キャンペーンをはったために現代もこの認識のまま教科書に載り続けたようです。
- 2008/08/29(金) 06:31:27|
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大日本史とは、徳川光圀が編纂を手がけた歴史書です。最も彼の生きている間には完成しませんでしたし、名前も死後「大日本史」と付けられたようです。
この本には三代特色というのがあり、室町時代の南北朝は、南朝が正当とし神宮皇后を天皇系列からはずし、大友皇子を天皇として扱うと言う三点ですが、この南朝正当論からこの本が尊皇の書として扱われ幕末以降大いにもてはやされました。
しかしこの本は、漢文で書かれており、また活字になった適当な出版物もありませんのでこの本を本当にすべて読んだ人は、研究者を除けば皆無ではないかと思われます。
光圀は儒教の人でしたのでこの本は、名分論を元に書かれており天皇の系図もこの名分論に則って書かれております。ですから名分では、武家政権というものは天皇から政権を奪ったと言うことで許されないわけですが(南北朝の北朝は、足利尊氏によって南朝に対抗してたてられた朝廷です。)そうすると徳川幕府も否定しなければなりません。
そこで尊皇敬幕の人光圀は困ってしまったようです。そしてまた、名分では家は、長男が継ぐ者なので南北朝では北朝が長男南朝が次男なので北朝に名分があるのです。
しかし南朝の祖後醍醐天皇は、政権を譲ることに同意しなかったので、政権継承は南朝に名分があると言うややこしい話になっております。
結局光圀は、後醍醐の時は南朝に名分があるが大局的には北朝に名分があるとしたようです。ちなみに光圀の時代の天皇は北朝の子孫ですのでそういう意味でも南朝正当論はなかなか声を大にして言えるものではなかったもののようです。
大局的に北朝支持でいかにに徳川幕府の正当性を理屈づけるかに苦心したのですが、これも時代が下ると光圀は、日本は天皇中心の国家、我が徳川家もけしからんと言う尊皇論者として国家に利用されていくようになります。
- 2008/08/23(土) 21:48:36|
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谷中に行ってきました。
毎年夏に全生庵というお寺で虫干しをかねて所蔵の幽霊が約50幅を一般公開しております。
これは幕末から明治にかけての大落語家三遊亭圓朝のコレクションだったもので中には、円山応挙、月岡芳年、河鍋暁齋など有名どころの作品も含まれております。
確かに幽霊画なのですが私自身は、それほど怖い感じはせず、どこかユーモラスな気がします。応挙の絵などはどちらかというと美しいです。
しかし、人は幽霊を恐れますがあれはなぜでしょうか。たぶん人間に無い特殊な力があると思われるからではないでしょうか。しかし死ぬとそういう力が備わると言うのも考えてみれば変な話のような気がします。また、仮にそういう力があって恨みのある者を取り殺したとするとその死んだ人が幽霊になった時に取り殺した幽霊との力関係はどうなるのか考えたりすると早々お話のようなわけにはいかないような気がします。
幽霊画を見た後ぶらぶら日暮里まで歩いていきましたが、この辺りは猫の多いところだそうで短い時間でしたが二匹の猫に出会いました。
猫達はあまり人を警戒する出もなく付かず離れずのところを悠然と通り過ぎていきました。
それにしてもこの辺りは、山手線を挟んで右と左では全然雰囲気の違うところでした。
- 2008/08/19(火) 22:01:31|
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尊皇攘夷と言う言葉は幕末好きの方ならたいていご存知と思われますが、これは、天皇を敬い異国を打ち払えという運動のスローガンみたいなものですが、この発想も水戸藩あたりから出たもののようです。
九代藩主水戸斉昭(烈公)は、光圀をかなり尊敬していたらしく伝説的に伝えられていたこともそのまま事実と信じているような人だったようです。幕末の動きの中では評価されるようですが実際は困った藩主だったのではと言う気がします。
さて、尊皇敬幕ですがこれは、徳川光圀の思想を一言で表すとこうなるのではないでしょうか。
天皇を敬い同時に幕府敬うということです。決して彼は尊皇一辺倒の人間ではありませんでした。
しかし後の水戸藩の学者など特に藤田幽谷・東湖親子などのでっち上げの結果それを全面的に信じる斉昭のような藩主の登場によって、尊皇光圀像が確定されていったようです。
光圀は徳川家康の孫です。それが幕府を批判するわけ無いのです。あったのは、御三家の中でも一番格下というコンプレックスだけだったのではないでしょうか。自分の地位、藩の格式を挙げるために一見幕府に反するようなことをしたために尊皇イメージが作られていったようです。
- 2008/08/14(木) 10:57:20|
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倹約の吉宗、浪費の綱吉。現代の感覚では、国のトップとして吉宗の方が国民に求められると思われがちですが、封建社会の場合だと事情が違うようです。
というのは、封建社会では、領主は年貢の徴収で財政をまかなっているわけですが、これが今の税金のように取りあえず一定額を国民から預かって必要なところに分配するというのではなく、集めただけ領主が肥えると言うだけなのです。
よって領主がばんばん無駄遣いででも吐き出さないと世の中にお金が回らなくなってしまうのです。
吉宗のように倹約すると、集めた年貢は皆死に金になってしまいます。ただ幕府だけが肥えるわけです。
さて水戸徳川家はどうだったのでしょうか。
光圀ははっきり言って浪費家だと思います。それだけ言うとこの時代では良き領主と思われるかも知れませんが、水戸藩にはまた別の理由があってこの浪費が大変民を苦しめました。
水戸藩は、当時二十八万石。それに対し後に御三家と呼ばれる尾張は六十万石紀州は五十万石です。そのため見栄を張って届けだけ三十五万石としました。そのため二十八万石の生産力しかないのに諸々の公務などは三十五万石出費をしていくことになります。当然その付けは年貢を納める人たちに回ります。水戸ほどひどい国はないと言われたらしいです。
余った金をどんどん世の中に還元していくのならまだ良いのですが、光圀の場合は無い金をむしり取って自分の趣味に使っていたようなものです。
しかし光圀の嫌らしいところは、そうやって自分で原因を作っておきながら晩年民百姓の元に訪れては、「とんでもない役人だわしが何とかしてやる」とかってに年貢高を下げたりして人気取りをしていることです。
光圀という人は、とにかく後の世に名君として名前が残ることを強く希望した人のようです。
ですからそのような話題作りに日々明け暮れていたようでそのことをよく知っている家臣も揃って名君光圀作りに励んだようです。
- 2008/08/11(月) 07:43:28|
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徳川光圀(水戸黄門)の生きた時代は、代表すれば元禄時代と呼ばれる時代。
将軍で言えば五代徳川綱吉です。
この時代がどういう時代であったかというと、政治では柳沢吉保などの側用人の起用、よく知られた法では「生類憐れみの令」事件では、老人一人を四七人もの男でリンチした赤穂事件、文化では
井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門、尾形光琳などが登場しました。
綱吉と言う人は、一般的に暗君というイメージが定着しているようですが、この時代庶民は活気に溢れていたようです。
それに対して名君と呼ばれる徳川吉宗(暴れん坊将軍)の時代は、倹約倹約で庶民は灯の消えたように静まりかえっておりました。
名君暗君というのは幕府にとってそうであるということのようで、庶民にとっては、まったく逆になるようです。
元禄時代というのは、ようやく戦国時代からの転換が成った時代で新しく国が動き出したようです。「もうそんな切った張ったの時代ではないのだから、むやみに野良犬などを切ったりしてはいけない」と言うのが「生類憐れみの令」の始まりだったようですが、規制されれば抜け道を探すという庶民のしたたかさが、やるからには徹底的にやらなければ気が済まない綱吉の性格とぶつかってそれがエスカレートして非常識な法へと変化してしまったようです。
そう言ったやりあいに火に油を注ぐようなことをしたのが光圀でした。犬の皮を将軍に献上したり、喜んで肉食をしたり・・・。
- 2008/08/10(日) 06:53:15|
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水戸では毎年8月の初めに「黄門祭り」という祭が行われます。
パレードに混じって黄門御一行が練り歩くのですが、水戸では偕楽園の梅祭でも
黄門御一行が公園内を歩き回ります。
地元の有志が扮装しているらしいです。
また、黄門の銅像は、市内の至る所にあり実に愛されたものです。
黄門様と言うとどういう人をイメージしますか?
多くはテレビの影響で、民に優しく悪に厳しい、名君をイメージするみたいですが本当にそうでしょうか。
水戸黄門、つまり徳川光圀の名君としてのイメージは、多分に後の人たちの情報操作にあるようです。
もちろん火のないところに煙は立たずと言う通りまったく何も無いところから話を捏造したわけではありませんが、この作られたイメージのため黄門様の悪口を言うとはけしからんという雰囲気が水戸藩内にあったらしく、それが昭和初期の戦争時の不敬罪の初めとなったという見方もあります。
- 2008/08/08(金) 06:32:50|
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ようやく骨がつながったようです。
完全に強度が戻るまではまだ少しかかるようですが
治療と言うことでは一段落のようです。
もう六年目になるわけですが永いもので短いようでした。
そう言えばもう今日から八月。暦の上では今日から秋になります。
立秋はもう少し先ですが、旧暦の七月は今日からです。
暑さも残暑と呼ばれるようになり朝晩は少しずつ涼しさも加わり
秋が忍び寄ってくる時節ですが地域によっては夢物語かも知れません。
私の地域では今年は、今のところ熱帯夜もなく比較的すごしやすい夏でした。

- 2008/08/01(金) 06:32:26|
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