尊皇攘夷と言う言葉は幕末好きの方ならたいていご存知と思われますが、これは、天皇を敬い異国を打ち払えという運動のスローガンみたいなものですが、この発想も水戸藩あたりから出たもののようです。
九代藩主水戸斉昭(烈公)は、光圀をかなり尊敬していたらしく伝説的に伝えられていたこともそのまま事実と信じているような人だったようです。幕末の動きの中では評価されるようですが実際は困った藩主だったのではと言う気がします。
さて、尊皇敬幕ですがこれは、徳川光圀の思想を一言で表すとこうなるのではないでしょうか。
天皇を敬い同時に幕府敬うということです。決して彼は尊皇一辺倒の人間ではありませんでした。
しかし後の水戸藩の学者など特に藤田幽谷・東湖親子などのでっち上げの結果それを全面的に信じる斉昭のような藩主の登場によって、尊皇光圀像が確定されていったようです。
光圀は徳川家康の孫です。それが幕府を批判するわけ無いのです。あったのは、御三家の中でも一番格下というコンプレックスだけだったのではないでしょうか。自分の地位、藩の格式を挙げるために一見幕府に反するようなことをしたために尊皇イメージが作られていったようです。
- 2008/08/14(木) 10:57:20|
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倹約の吉宗、浪費の綱吉。現代の感覚では、国のトップとして吉宗の方が国民に求められると思われがちですが、封建社会の場合だと事情が違うようです。
というのは、封建社会では、領主は年貢の徴収で財政をまかなっているわけですが、これが今の税金のように取りあえず一定額を国民から預かって必要なところに分配するというのではなく、集めただけ領主が肥えると言うだけなのです。
よって領主がばんばん無駄遣いででも吐き出さないと世の中にお金が回らなくなってしまうのです。
吉宗のように倹約すると、集めた年貢は皆死に金になってしまいます。ただ幕府だけが肥えるわけです。
さて水戸徳川家はどうだったのでしょうか。
光圀ははっきり言って浪費家だと思います。それだけ言うとこの時代では良き領主と思われるかも知れませんが、水戸藩にはまた別の理由があってこの浪費が大変民を苦しめました。
水戸藩は、当時二十八万石。それに対し後に御三家と呼ばれる尾張は六十万石紀州は五十万石です。そのため見栄を張って届けだけ三十五万石としました。そのため二十八万石の生産力しかないのに諸々の公務などは三十五万石出費をしていくことになります。当然その付けは年貢を納める人たちに回ります。水戸ほどひどい国はないと言われたらしいです。
余った金をどんどん世の中に還元していくのならまだ良いのですが、光圀の場合は無い金をむしり取って自分の趣味に使っていたようなものです。
しかし光圀の嫌らしいところは、そうやって自分で原因を作っておきながら晩年民百姓の元に訪れては、「とんでもない役人だわしが何とかしてやる」とかってに年貢高を下げたりして人気取りをしていることです。
光圀という人は、とにかく後の世に名君として名前が残ることを強く希望した人のようです。
ですからそのような話題作りに日々明け暮れていたようでそのことをよく知っている家臣も揃って名君光圀作りに励んだようです。
- 2008/08/11(月) 07:43:28|
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徳川光圀(水戸黄門)の生きた時代は、代表すれば元禄時代と呼ばれる時代。
将軍で言えば五代徳川綱吉です。
この時代がどういう時代であったかというと、政治では柳沢吉保などの側用人の起用、よく知られた法では「生類憐れみの令」事件では、老人一人を四七人もの男でリンチした赤穂事件、文化では
井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門、尾形光琳などが登場しました。
綱吉と言う人は、一般的に暗君というイメージが定着しているようですが、この時代庶民は活気に溢れていたようです。
それに対して名君と呼ばれる徳川吉宗(暴れん坊将軍)の時代は、倹約倹約で庶民は灯の消えたように静まりかえっておりました。
名君暗君というのは幕府にとってそうであるということのようで、庶民にとっては、まったく逆になるようです。
元禄時代というのは、ようやく戦国時代からの転換が成った時代で新しく国が動き出したようです。「もうそんな切った張ったの時代ではないのだから、むやみに野良犬などを切ったりしてはいけない」と言うのが「生類憐れみの令」の始まりだったようですが、規制されれば抜け道を探すという庶民のしたたかさが、やるからには徹底的にやらなければ気が済まない綱吉の性格とぶつかってそれがエスカレートして非常識な法へと変化してしまったようです。
そう言ったやりあいに火に油を注ぐようなことをしたのが光圀でした。犬の皮を将軍に献上したり、喜んで肉食をしたり・・・。
- 2008/08/10(日) 06:53:15|
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水戸では毎年8月の初めに「黄門祭り」という祭が行われます。
パレードに混じって黄門御一行が練り歩くのですが、水戸では偕楽園の梅祭でも
黄門御一行が公園内を歩き回ります。
地元の有志が扮装しているらしいです。
また、黄門の銅像は、市内の至る所にあり実に愛されたものです。
黄門様と言うとどういう人をイメージしますか?
多くはテレビの影響で、民に優しく悪に厳しい、名君をイメージするみたいですが本当にそうでしょうか。
水戸黄門、つまり徳川光圀の名君としてのイメージは、多分に後の人たちの情報操作にあるようです。
もちろん火のないところに煙は立たずと言う通りまったく何も無いところから話を捏造したわけではありませんが、この作られたイメージのため黄門様の悪口を言うとはけしからんという雰囲気が水戸藩内にあったらしく、それが昭和初期の戦争時の不敬罪の初めとなったという見方もあります。
- 2008/08/08(金) 06:32:50|
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ようやく骨がつながったようです。
完全に強度が戻るまではまだ少しかかるようですが
治療と言うことでは一段落のようです。
もう六年目になるわけですが永いもので短いようでした。
そう言えばもう今日から八月。暦の上では今日から秋になります。
立秋はもう少し先ですが、旧暦の七月は今日からです。
暑さも残暑と呼ばれるようになり朝晩は少しずつ涼しさも加わり
秋が忍び寄ってくる時節ですが地域によっては夢物語かも知れません。
私の地域では今年は、今のところ熱帯夜もなく比較的すごしやすい夏でした。

- 2008/08/01(金) 06:32:26|
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